前の記事
次の記事
一眼レフカメラで撮った写真
2002-12-05
ゆいペンション 02.12.4
今シーズン増村さんは、仕事他諸々の事情で朝日小屋に一度もお見えになりませんでした。ですから、シーズン中に私が撮り溜めた写真を見ていただくのは初めてです。
春に負釣山で撮ったイワウチワの写真は“ぼろぼろ・ボロボロ”に評されてしまい、「もう二度とカメラは持ちたくない」と思ったほどでしたが(笑)、後で聞けばそれも増村さんの深い愛情だったとか(爆笑)。
今回は、花を撮った写真は「まだまだ」ということでしたが、山や風景を撮った中には「まあまあ」と言っていただけたものもありました。 怖くて(?)ネガのまままだ一枚もプリントしていなかったので、増村さんに選んでいただいたのを中心にして、自分で気に入ったものを引き伸ばしてみようかなと思います。
この記事の URL : http://asahigoya.net/diary/2002/12/d20021205c.html
白馬館本社へも
2002-12-05
白馬館ビルのエレベーターの中に貼ってあったポスター
photo by 菊池哲男
白馬駅前にある、白馬館本社へも初めてご挨拶に行って来ました。
松沢社長さんはいらっしゃいませんでしたが、西澤部長さんとお会いして来ました。
白馬山荘の若林支配人他の皆さんは、それぞれすでにスキー場などの「冬の勤務先」で仕事に就いていらっしゃるそうです。
この記事の URL : http://asahigoya.net/diary/2002/12/d20021205d.html
「北アルプスゴールデンルート」ミニ・フォーラム in 朝日町
2002-12-09
あさひコミュニティホール アゼリアにて 02.12.7
7日(土)、「北アルプスゴールデンルート」のミニ・フォーラムが朝日町のアゼリアで開かれました。
「北アルプスゴールデンルート」とは、富山商工会議所などが提唱する富山〜糸魚川〜大町・松本〜高山を結ぶ長さ約360†の、まさに北アルプスをぐるりと一周する沿線の呼び名だそうです(…私も、今回初めてその名称を知りました)。
私も昨年管理人になってから、公私共に、山小屋関係の繋がりやまた他の山を歩くにしても、これまであまり意識していなかった北アルプスに関係する4県との結びつきを強く感じる機会が多くなりましたので、今回は要請があり初めて参加することになりました。
岐阜・長野・新潟・富山の沿線4県から、観光ボランティアやまちづくり団体などの関係者約60名以上が参加し、それぞれの地域の特徴や活動内容を報告したり、また今後ルート沿いの特産品や食文化、祭りなどの伝統文化や温泉などの魅力ある観光資源をお互いに理解し、同ルートのPRへ連携を強めていくことなどを話し合いました。
6つのグループに分かれて意見交換をしたのですが、私のテーブルには新潟県から「越後いといがわ塩の道を歩く会」や糸魚川の民話を発掘し語り継いでいるグループの皆さん、岐阜県からは古川町などでまちづくりのNPOを立ち上げ奮闘する「木の国ふるさとづくりの会」の皆さん、富山市の観光ボランティアで頑張っていらっしゃる方、魚津の蜃気楼研究会の会長さん、そして地元朝日町からガイドグループの皆さん等など、元気いっぱいの面々が勢揃い。
朝日小屋は「観光」の中では山小屋という特殊な条件の下にありますが、北アルプスの最北端で、アルプスと日本海を繋ぐ特別の意味合いを持つ山小屋ですから、これからもいろいろと考えていきたい課題もあり、皆さんとの交流は大変有意義なものがありました。
また、人と人との交流を大切にし、地方の文化と同時にその土地の温かい人情をぜひ伝えたいと奮闘していらっしゃる皆さんの熱意と、「自分が住む土地を知り、何より自分が愉しんで他人をもてなしている」とおっしゃる皆さんのパワーに、今回は私も元気をもらって来ました。
この記事の URL : http://asahigoya.net/diary/2002/12/d20021209a.html
来シーズンのご予約が…
2002-12-09
朝日小屋(右)と前朝日岳 山頂までの登山道から 2002.9
2002年シーズンの“ご予約第1号”は、今年の1月にありました。それでも「まだシーズンまで半年以上あるのに、かなり早いなあ」と思っていましたが、2003年・来シーズンのご予約第1号が今日、高知県から届きました。
…来シーズンの事はそろそろ考え始めている私ですが、う〜ん、まだ早過ぎるような、早速来年の予約帳を作らなくっちゃ!!(笑)。でも、やっぱり有り難いことですね。
そういえば、今年は九州と四国からのお客様が結構おいでになったように記憶しています。さすがに北アルプスは遠いので、「一生にそう何度も来れないわ、憧れの北アルプスヨ!」と、皆さん楽しみにしていらっしゃるご様子でした。
今年の反省をしつつ、ボチボチ来年に向けての「秘策(!?)」を考え始めている私です。
この記事の URL : http://asahigoya.net/diary/2002/12/d20021209b.html
『魔の山大遭難・決死の救出劇』
2002-12-11
今朝の富山県地方は、大雪に見舞われた 我が家の前で
11月中旬にNHK・プロジェクトXで放送された『魔の山大遭難・決死の救出劇』のビデオを見ました。
あらためて冬の剱岳をはじめとする山や自然の険しさや厳しさを認識させられると同時に、立山町芦峅寺の山岳ガイドや山男たち、そして富山県山岳警備隊の皆さんの偉大な力と深く結ばれた友情を思い、何度見ても涙してしまいます。
“38豪雪”の年の「薬師岳・愛知大生大量遭難」を教訓に、翌昭和40年3月に発足した「富山県警山岳警備隊」。発足当初は、山の素人集団と評され、芦峅寺のベテラン山男達から指導を受けたといいますが、山岳遭難救助の現場は昔も今もまさに「命懸け」であることに変わりはありません。
それから5年…昭和43年12月末から44年1月にかけて340人が入山し、金沢大学のパーティーを含めた15パーティー・81名が猛吹雪で山頂に閉じ込められたという、「昭和44年・剱岳大量遭難」。その時の実話を元に、番組は構成されていました。
実は今朝の富山県地方は、昨晩から降り続いた雪が平地でもひと晩で40〜50センチ以上も積もったのですが、この日本海から吹き込んだ季節風の影響を受ける北陸地方の雪は、本当に何とも重く湿っているのです。
これが北アルプスの高山であれば、氷点下の気温の中で大量の積雪に加えて風速30メートル以上の強風、地吹雪、そして出来る「雪庇」。。。
管理人になってからの私は楽しい山行を重ねて、時々の『山』の素晴らしさや偉大さを心の底から感じるようになってはいますが、まだ本当の『山』の怖さには遭遇していません。しかし、山へ登る回数を重ねるほどに、的確な山の技術と知識の習得や経験の重要さ、頑強で且つ柔軟な精神力の養成、何より肉体的な鍛錬の必要性を痛感しています。
山岳ガイド・剱澤小屋の佐伯友邦さんが、「山は正直。いい加減な気持ちを持って山に入ると、必ずしっぺ返しに遭う」と話していらっしゃった言葉が印象的でした。
(誤解されると困るのですが、番組を見た素直な感想としては)
山岳遭難救助の現場は男の世界だなあと、つくづく思ってしまったのは、私が男でないからでしょうか。
それにしても、『山男』達の間に固く結ばれた絆と友情は、本当に素晴らしいです。
この記事の URL : http://asahigoya.net/diary/2002/12/d20021211a.html
亡き・郷 康彦さんの想い出
2002-12-11
暖炉の温かさ ゆいペンションにて 02.12.3
私の手元には、『山の彼方に 郷 康彦警部補 追悼・遺稿集』があります。
番組の中に何度も登場された、故・郷 康彦さん。
今も県警山岳警備隊の現役として指揮を執っていらっしゃる椙田 正さんや、第一線を退いてからも後輩を思いやる城宝勝明さんと一緒に、昭和44年の剱岳大量遭難の現場に駆けつけた中に郷さんの姿を見て、私は涙が止まりませんでした。
郷さんは、昭和40年の富山県警山岳警備隊発足当時からその隊員となり、剱岳一帯を中心に数々の山岳遭難の現場でその力を発揮された後、48年3月に入善署勤務となり54年3月に富山北署勤務となるまでの6年間、朝日岳方面の山岳警備の任に当たられました。
昭和48年にはちょうど私の亡父が朝日小屋の管理人を任された直後だったこともあり、郷さんには大変お世話になった事を覚えています。また当時は、朝日岳でも死亡を含めた重大事故が発生した事もあり、郷さんがその力を大いに注いで下さったものでした。
あの頃私は高校1年生の15歳、郷さんは28歳。
私は、一体郷さんがどんな立派な山岳警備隊の仕事をしていらっしゃった方かを知る由もなく、「パトロールに登って来たお巡りさん」「コロコロっとした笑顔のお巡りさん」という印象でした。
「おう、ゆかり。俺、郷。GO!GO!」と私たちに冗談を言っては、いつも柔らかな笑顔でした。
また、今は立山室堂山荘へ嫁いでいる私の妹に「おう、法チャン。俺んとこへ嫁さんに来んか!?いいぞ。俺、法チャン好きながよ」と、その頃まだ中学生か高校生だった妹をからかっていた郷さん。追悼集「山の彼方に」には、いくら見合いをしても「ウン」と言わなかった郷さんの事を何人かの友人が書いていらっしゃいますが、法子へのひと言は子どもだった私たちをからかっての事だったのか、それとも本気もちょっぴり入っていたのか、今となっては分かりません。
その郷さんが、一度ふっと厳しい顔をされたのを今でも良く覚えています。
確か、昭和50年の雪倉岳の遭難の時。残念ながらその時は2名の登山者の方が亡くなってしまわれたのですが、その捜索の時だったでしょうか、まだ梅雨が明けず寒い雨が降っていました。
捜索隊の皆さんに暖を取ってもらうためにストーブを用意したり、あたふたしている私に『ゆかり、な〜ん、ストーブなんかいらんちゃ。山行くモンやったら、これ位の寒さ我慢せんにゃ。少し濡れとっても自分の体温で乾かすもんよ!』
忙しそうに走り回る私たち小屋の者を思いやり、気遣って下さった言葉だったと思いますが、その郷さんの横顔に、山の自然の厳しさを垣間見せられ知らされたような気がします。
昭和60年5月27日、上市町伊折地内で山菜取り最中に死亡した老人の捜索救助活動に際し、その遺体を搬送途中、突然崩壊した約1トンもの雪塊の下敷きとなり殉職された郷さん。その日の驚きと哀しみは、今でも忘れられません。
郷さんが生きていらっしゃったら、私が父の後を継いで朝日小屋の管理人をやっていると知って、きっと心配してそして励ましに、北又からお土産を担いで登って来てくださったことでしょう。大好きだったホルモンをつつきながらお酒も一緒に飲みたかったし、山のことなどいろいろ教えてもらいたかったと残念でなりません。
あらためて、郷さんのご冥福をお祈りいたします。
この記事の URL : http://asahigoya.net/diary/2002/12/d20021211b.html
訃報。。。立山天狗平山荘・佐伯 守さん逝去
2002-12-15
ありし日の佐伯 守さん
北アルプス三県山小屋協会総会にて 02.2.28
立山天狗平山荘オーナーで、現・立山山荘協同組合理事長の佐伯 守さんが、14日午前11時50分、感染性心内膜炎のため富山医薬大付属病院で亡くなられました。68歳でした。
前・北アルプス山小屋協会会長。
佐伯さんは、昭和44年の剱岳大量遭難をはじめ数々の遭難救助活動に尽力された他、北アルプス立山一帯の自然保護に力を注がれるなど、現職の理事長として今日まで立山山荘協同組合の発展に寄与されました。
今年2月に立山で開かれた三県山小屋協会総会では、会長として総会の成功に尽くされましたが、その時には司会役を務められるなどとてもお元気な姿を見せていらっしゃったのに、本当に残念でなりません。
私は亡父からバトンタッチして昨年から山小屋協会に加入しましたが、立山室堂山荘の法子の姉だということもあって、守さんには当初から「ゆかりちゃん、ゆかりちゃん」と可愛がってもらい、またいつも励まして頂きました。
昨年9月に立山で三県山小屋協会の研修会が開かれた折には、「ウチでお茶でも飲んでいかんか?」と天狗平山荘へ寄り道させてもらいました。お部屋や食堂を案内してもらい、コーヒーを飲みながら小屋の話や自慢のお食事のこと等など、いろいろ教えてくださいました。また室堂山荘から雷鳥荘まで守さんと一緒に歩く機会もあり、その時にもいろいろなお話を聞かせて頂きました。
秋頃から具合が悪そうだと聞いていましたが、少し調子が良くなられたら一度お見舞いに行って来ようと妹と2人で話していたのに、それも叶いませんでした。
昨晩は、阿曾原温泉小屋の佐々木 泉さんと一緒に、芦峅寺の佐伯さんのご自宅へ弔問に行って来ました。気丈に弔問客の応対をされるご家族の方々の姿、そしてガクッと肩を落とし目を真っ赤にしておられた剣山荘の佐伯功麿さんの姿が涙を誘いました。
ご葬儀は17日、私も参列して最後のお別れをして来ます。
佐伯 守さんのご冥福を、心よりお祈り申し上げます。
この記事の URL : http://asahigoya.net/diary/2002/12/d20021215a.html
下山から2ヶ月、ようやく“浦島太郎”状態から抜け出して
2002-12-16
水平道と頂上周りの登山道「分岐点」 02.9.11
亡き郷 康彦さんの想い出、そして佐伯 守さんの訃報。。。と、哀しい話しが続きましたので、少し私の近況報告でもしましょうか。
10月16日に小屋を閉めて下山して来てから、今日でちょうど2ヶ月。
一時期の、頭の中が空っぽで全然回らない状態から、どうやらようやく抜け出すことができたみたい…(笑)。
下山して来ても山ばかり行っていたから当然なのでしょうが、山の上では真夏の最盛期でも小屋のこととお客様のこと、お天気やアルバイトのみんなのこと位を考えていれば良かったのです。買い物にも行かないし、銀行にも縁がないし(笑)、とにかく行動範囲は限りなく狭かった!!
でも家へ帰ってみると…
夏休みに小屋を手伝ってくれた高校3年生の二女・三女(双子)は、私が下山した頃にはすでに「受験生モード一色」で、休日も模試を受けに学校へ。決して教育ママではない私も、夜遅くまで机に向かっている娘たちを見ていると、さすがに最近は自分ばかりが遊びに行っていられないかなぁと思うのも親心!?
しかし、夫や子どもたちの毎日のお弁当作りも、家族の朝晩の食事の用意にも、何だかポワーッとしたまま気持ちが入らない毎日がしばらく続きました。
買い物に出たら出たで、何ヶ月も行っていないのでどこの売り場に何があるか、どの棚に欲しいものが並んでいるか探すのが大変!!あったはずのお店が無くなっていたり、新しいショップが開店していたり。
小刻みに用事があって外出したり、会議などへの出席も、やっと重い腰をあげなければ身体も心も自分からスッと動こうとはしてくれません。「コタツの子守り」が一番、と思う時も(笑)。
贅沢な悩みと思いますが、下界の“フツーの生活”のテンポについて行けない、自分の頭がどうにも回転しきらない、そんな毎日の中で感じる苛立ち、不安、もどかしさ…そういえばこんな現象は、出産の後に職場復帰をした時の感じとどこか似ているような気がしていました。
そして私が一番危機感を感じたのは…「緊張感」の無さ。
特に時間が自由になるという事、そして上司がいないという事が、ともするとダラダラした生活に繋がります。今日やりきらなくてはいけない用事も「明日、明日」と先延ばし。また例えば買い物に出る時にも、トレパン姿で「まぁ、いいか!?」とノコノコ平気で車に乗ってしまう“オバサン状態”(笑)。
そしてそして、緊張感の無さが生み出すのは。。。
やっぱり『体型の変化』。。。うぅぅ
しかし12月も中旬になって、そんな“浦島太郎”の状態からやっと一歩抜け出したように思います。まだまだ以前のような「とことん・エネルギッシュ」なゆかりには遠いような気もしますが(笑)、やっと下界のテンポに合ってきたみたい。
そうこうしているうちに、きっと12月が過ぎて新年。
子どもの受験に気を揉んでいるうちに、きっと春。待遠しいなぁ…。
そしてすぐに、小屋開けの準備が始まる5月…!?
この記事の URL : http://asahigoya.net/diary/2002/12/d20021216a.html