北アルプス 朝日小屋

朝日小屋 TEL 080-2962-4639(衛星電話)
北又小屋 TEL 0765-84-8809
開設期間外 朝日小屋連絡所
 〒939-0711 富山県下新川郡朝日町笹川 清水ゆかり
 TEL & FAX 0765-83-2318

前の記事 次の記事

深田久弥と朝日岳

2003-03-21

朝日岳山頂に建つ、方位盤    02.7.8

 朝日岳山頂に建つ、方位盤    02.7.8

 深田久弥の年表を開いてみると、「1903年(明治36年)3月11日、石川県大聖寺町(現加賀市)に生まれる」「1971年(昭和46年)3月21日、茅ヶ岳登山中に脳卒中で死去。68歳」とあります。
 今年は、深田久弥生誕百年の年に当たります。
 そして掲示板の中で吉村さんが書いておられたように、今日3月21日には生誕の地である大聖寺で33回忌の法要が営まれているそうです。
 深田久弥といえば、1964年(昭和39年)7月に新潮社から刊行された『日本百名山』があまりにも有名ですが、“山と渓谷”の3月号では生誕百年を記念して『深田久弥の世界…“日本百名山”の著者の知られざる素顔』と題した特集を載せていましたね。ご覧になりましたか?
 深田久弥の百名山の中に、我が愛する朝日岳は入っていません。北アルプスの最北端・朝日岳は「日本三百名山」なのです。
 しかし、実は『日本百名山』が刊行される前年の1963年(昭和38年)7月15日から18日にかけて、久弥は蓮華温泉から朝日岳、そして小川温泉のコースを歩いていて、その事が『山頂の憩い…“日本百名山”その後』と題した本(自選の最後の山の紀行文集といわれる)の中に記されています。
 今回の山渓特集記事の中では、「回想・素顔の久弥」と題して、その山旅に同行された山本健一郎氏が思い出話を書いていらっしゃいます。
 「昭和38年7月。或る山行から」という本文には、蓮華温泉から朝日岳の厳しい急登の感想や、だれもいない朝日岳山頂での寛いだ様子とともに山頂で憩う写真が載せられ、そして大荒れとなった翌日に朝日小屋で停滞し将棋を指した思い出などが綴られています。
 しかし、深田久弥が朝日岳を『日本百名山』の最後にでも選んでくれなかったのはいかなる理由からか、時間的には本の最終校正に間に合わなかったのかとも考えられるのですが(微笑)、『山頂の憩い…“日本百名山”その後』を読む限りは、どうも山旅の全行程の印象がちょっと悪かったのかな、と思えてなりません。
 それによると、「…全くの天上の楽園である。しばらく私たちはその甘美に酔った。」という一文があるのに、「もう頂上が近いと思わせながら先が長かった」とも書いています。 
 そしてどうも久弥のお気に召さなかったのが、北又へ下山途中の夕日ヶ原だったらしいのです。「夕日ヶ原だの…(中略)…近頃の少女趣味の名づけかたを私は好まない。何が夕日ヶ原であるものか、コンチクショウ、と言いたくなる」(笑!)
 また極めつけは、イブリ山(恵振山)。「どんな山頂であったか、何の思い出も残っていないとこを見ると、取立てて言うほどの峰でもなかったらしい」。。。朝日小屋管理人としては、全く無言です(微笑)。
 その後にも、北又から小川温泉への林道のことや小川温泉の様子などが記されているのですが、その文章からみても、どうも深田久弥の朝日岳山行は氏には満足いくものではなかったようですね。
 一方、「保勝会50年のあゆみ」「70年のあゆみ」の両方を調べてみたのですが、当時すでに作家として活躍し、またその数年後には日本山岳会副会長にも就任した、かの有名な深田久弥が朝日小屋に2泊もしたという記録は何処にも残っていません。
 当時の朝日小屋は、一体深田久弥一行にどんなおもてなしをしたのやら、今となっては分かりませんね。
 ちなみに、1963年(昭和38年)に久弥が宿泊した朝日小屋は、1951年(昭和26年)に新築されその後数回にわたる増改築を重ね、その年6月にも食堂や便所の増築工事を完了していたものの、1965年(昭和40年)9月10日の台風23号により全壊。ですから、当時の小屋で久弥が将棋を指したという将棋盤なども、残念ながら今は何も残っていないのです。
 夕日ヶ原も、そして恵振山の山頂も、恵振山5合目のブナの林も…どの場所も、できればもっとゆっくり、そして何度も、深田久弥に歩いてもらいたかったですね。
 きっと久弥は、夕焼けに染まる日本海に沈む夕陽を見ていないでしょう。それから多分歩いた時期からいっても、夕日ヶ原が一面のお花畑になるところを見ていないのでは…。
 また、白馬岳から雪倉岳を越えて来て頂けたなら、朝日岳に対する感想も少し違っていたかもしれません。見てもらいたかったです、残念ですね。