「JA6141」
2001-05-18
毎日毎日バタバタと、買出しやら打合わせ、役所へも足を運んだり、原稿書きや取材に応じたり等々‥、いろいろな準備に追われている私です。
そんな中、一昨日には朝日小屋の荷揚げをお願いしているヘリ会社・I社の小宮機長が東京から日帰りでいらっしゃって、一緒に現地を見に行きました。ヘリポートの候補地を再確認し、予定を立てる為の打合せに急遽来冨されました。もう7年位のお付き合いで、朝日岳をよく知っていらっしゃるパイロットなので、危険を伴う仕事も安心してお任せ出来ます。
現地での打合せの後、コーヒーを飲みながらいろいろなお話を聞かせていただきました。「遠い所、日帰りで車を運転して大変でしょう」と言いましたら、「普段はヘリでの移動ばかりですから、たまにはいいですよ(笑)」と。
そんな話をしているうちに、昨年亡くなった父が最後にヘリコプターで山を降りた時の話になりました。
一昨年の秋。父は病状が悪化した為、3日後の小屋閉めを待たずに急遽要請したヘリで山を降りる事になったのですが、その時小宮さんは他の仕事が抜けられずに、奥多摩で仕事をしていた別の機長が来て下さったのです。いくらベテランのパイロットでも、全く初めての山を飛ぶのはかなり大変のようで、まして雲の切れ間から目標となる山小屋をすばやく見つけるのは至難の業。しかしその時は、偶然いつも朝日岳を担当している整備担当者の方がその機体に乗り合わせていらっしゃって、すぐに駆けつける事が出来たとのことでした。「その整備担当者が居なかったら手間取ってしまって、大変だったかもしれません。本当にラッキーでした…」
あの時の光景は、今も昨日のことのように覚えています。
2年前の10月9日、私は小屋閉めの手伝いの為に北又から登って来ました。父がその日急遽降りることになっているとは知らぬまま…。鎖場〜夕日が原で初めてかすかにヘリの音を聞き、胸騒ぎを覚えながら足を速めました。小屋が見える小高い丘を登りきった所で、雲の切れ間からヘリが何度も旋回しているのが見え、小屋に向けて走り出しました。父は首から「簡易酸素ボンベ」をぶら下げて、アルバイトの皆に支えられてやっとの様子で立っていました。下から上がって来たばかりの私でしたが、「このまま付き添ってヘリで降りる」と言いましたら、父は「独りで行けるから心配しなくて大丈夫だ」と。ヘリは一瞬の晴れ間をついて父を収容し、私はなんともいえない思いでその機体を見送りました。
「…清水さん、あの時お父さんを乗せた機体はラマ315Bといって、なかなか優秀でレスキューにも使われている機体です。機体NOはJA6141。最近売却されましたが、今はアメリカで元気に活躍しています。整備担当の連中がわざわざアメリカまで見に行って来たんですよ」と教えてくださいました。
まさか2年前のあの時には、こんな日が来るとは思ってもみませんでしたが…、ひと月後、今年はその小宮機長が操縦するヘリで、私が小屋を開ける為に上がります。もちろん、父の想いも一緒に運んでいきます。
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