訓練の様子 その2
2001-05-14
この記事の URL : http://asahigoya.net/diary/2001/05/d20010514c.html
2001-05-14
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2001-05-18
毎日毎日バタバタと、買出しやら打合わせ、役所へも足を運んだり、原稿書きや取材に応じたり等々‥、いろいろな準備に追われている私です。
そんな中、一昨日には朝日小屋の荷揚げをお願いしているヘリ会社・I社の小宮機長が東京から日帰りでいらっしゃって、一緒に現地を見に行きました。ヘリポートの候補地を再確認し、予定を立てる為の打合せに急遽来冨されました。もう7年位のお付き合いで、朝日岳をよく知っていらっしゃるパイロットなので、危険を伴う仕事も安心してお任せ出来ます。
現地での打合せの後、コーヒーを飲みながらいろいろなお話を聞かせていただきました。「遠い所、日帰りで車を運転して大変でしょう」と言いましたら、「普段はヘリでの移動ばかりですから、たまにはいいですよ(笑)」と。
そんな話をしているうちに、昨年亡くなった父が最後にヘリコプターで山を降りた時の話になりました。
一昨年の秋。父は病状が悪化した為、3日後の小屋閉めを待たずに急遽要請したヘリで山を降りる事になったのですが、その時小宮さんは他の仕事が抜けられずに、奥多摩で仕事をしていた別の機長が来て下さったのです。いくらベテランのパイロットでも、全く初めての山を飛ぶのはかなり大変のようで、まして雲の切れ間から目標となる山小屋をすばやく見つけるのは至難の業。しかしその時は、偶然いつも朝日岳を担当している整備担当者の方がその機体に乗り合わせていらっしゃって、すぐに駆けつける事が出来たとのことでした。「その整備担当者が居なかったら手間取ってしまって、大変だったかもしれません。本当にラッキーでした…」
あの時の光景は、今も昨日のことのように覚えています。
2年前の10月9日、私は小屋閉めの手伝いの為に北又から登って来ました。父がその日急遽降りることになっているとは知らぬまま…。鎖場〜夕日が原で初めてかすかにヘリの音を聞き、胸騒ぎを覚えながら足を速めました。小屋が見える小高い丘を登りきった所で、雲の切れ間からヘリが何度も旋回しているのが見え、小屋に向けて走り出しました。父は首から「簡易酸素ボンベ」をぶら下げて、アルバイトの皆に支えられてやっとの様子で立っていました。下から上がって来たばかりの私でしたが、「このまま付き添ってヘリで降りる」と言いましたら、父は「独りで行けるから心配しなくて大丈夫だ」と。ヘリは一瞬の晴れ間をついて父を収容し、私はなんともいえない思いでその機体を見送りました。
「…清水さん、あの時お父さんを乗せた機体はラマ315Bといって、なかなか優秀でレスキューにも使われている機体です。機体NOはJA6141。最近売却されましたが、今はアメリカで元気に活躍しています。整備担当の連中がわざわざアメリカまで見に行って来たんですよ」と教えてくださいました。
まさか2年前のあの時には、こんな日が来るとは思ってもみませんでしたが…、ひと月後、今年はその小宮機長が操縦するヘリで、私が小屋を開ける為に上がります。もちろん、父の想いも一緒に運んでいきます。
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2001-05-19
今日の富山県地方は久し振りに雨が降りました。記録的な少雨だとかで、畑物が上手く育たないと義母がぼやいています。
昨晩は「ゆかりの壮行会」・第一弾があり、今日の午前中はなんとなく二日酔い気味でボー…。高校の同級生たちが「雲上の人」になる私を励ましてやろうと(それに名を借りた飲み会だと思いましたが)、賑やかに開いてくれました。中には「アレッ、『送別会』じゃなかったの?」などとからかう人もいましたが、そんな冗談を言える友人の輪がなんとも心地よくて、大好きな集まりです。
毎日「管理人の日記」を覗いてくれている人や、山が写っている日記をプリントアウトして来て皆に見せて説明してくれた人、今度は必ず登って来るネと約束してくれる人…、文字通り「雲上の人」になっても、皆が思ってくれている気持ちに応えるべく頑張りたいと思います。
「人と人との出会い」は、今もそしてこれからも本当に大切にしたいものです。高校時代には話しも出来なかった人たちとも、あの時の出会いがあったからこそオジサン・オバサンになっての友人の輪が広がっています。またそんな出会いが生きていくことに少し勇気をくれるのではないでしょうか。
朝日岳のかけがえのない自然との出会い、そして朝日小屋での出会いを大切にして、人と人との繋がりをステキに演出することができたら…、新米管理人はそう考えています。
明日は、気の合った人たちと新潟県の白鳥山へ行って来ます。白鳥山も初めてなので、連れて行ってもらいます。その報告もまた…。では、では。
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2001-05-20
お風呂上りのビールならぬ冷たいお茶を飲みながら、今日の感激を忘れないうちに…。先週の越道峠に続いて最高のお天気に恵まれた今日の山行、行先は新潟県との県境の山・白鳥山(標高1286.9m)
登り口は、「山姥伝説の里」新潟県青海町上路地区にあり、最近は親不知からの栂海新道コースも人気があります。今日は坂田峠を取り付いて、金時坂の急坂を行くコースでした。でもそこは息つく間もない恵振山の坂を登る為の訓練と思い、ひたすらガンバル…。残雪も多かったのですが、中途半端に木々が起きていたりして歩きにくく、雪の消えた傍から咲く満開のカタクリやイワウチワ、マンサクにも励まされての登りです。途中935mのピークまでが結構キツイ…。
その後は遠くに連なる山々の名前を確認しながら、快晴の空にふーっと息をしてまた登り続けます。しばらく行くと視界の中には頂上に「白鳥小屋」、正面には犬ヶ岳、そしてその奥には朝日岳が見えて来ます。
立派な白鳥小屋に感心し、汗を拭ってからお昼の準備。もう用意万端のお姉さま方が、何やらお鍋にお湯を沸かし始めました。ネギとゴボウの香りを漂わせて「団子汁」の出来上がり。今日もひと口のビールと共に、「団子汁」が美味しかった!!
朝日岳と前朝日、そしてちゃんと朝日小屋も確認でき、今日の目標はクリアしました。(少し霞んで見えたので、私の安物デジカメでは朝日岳の様子はあまりハッキリしないかも)
下りは、先週のピッケルを使った「滑落停止訓練」の復習をしながら降りました(他人が見ると、まるで雪遊び!?)。が、何度もやると腕が疲れてきて「もうダメ…」。登り口に近づく頃には、金時坂の急坂に暑さが加わって汗が噴き出し、私の顔はまさに「金時さん」のように真っ赤でした。
登りはゆっくり写真を撮りながら2時間30分、下りは遊びながら1時間30分。
父もよく登った山…、来年からは毎年この時期に登りたいと思います。
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2001-05-20
(わざとボカしましたが、わかるかも…)
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2001-05-20
まだ結構雪がありますね。
この記事の URL : http://asahigoya.net/diary/2001/05/d20010520c.html
2001-05-20
ちょっと光が反射しすぎて、上手く撮れていませんが、雰囲気だけでも…。
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2001-05-24
『人生は出会いとタイミング』・・最近よくそんなことを思うのですが、自分が管理人になることを決意する時にもいくつかの偶然が重なって、あとから気付いたら「やっぱり私が引き受ける運命だったのかも」等とヘンに納得している私です。
実は私は今から3年半前に「股関節」の手術をしています。もしこの手術があと1年遅かったら、「管理人・清水ゆかり」はなかったでしょう。今更ながら、主治医の先生に出会えたタイミングのよさを感じています。
今から4年前のちょうど5月、私はどうにも言い表しようのない足のだるさに気付きました。痛くはないのだけどだるくてだるくて…。スポーツも毎週やって、運動会も大好き、でも長時間椅子に腰掛けていると苦痛になってくる。医療関係に勤めていた私は、いくつかの情報の中から「あの先生が上手だよ」と教えられた整形外科のY先生を受診する事にしました。
私の右足のレントゲン写真を前にして、Y先生は「手術しましょうか!?」…いきなりの言葉に、私は「…」。病名は「右股関節臼蓋形成不全」、生まれつきだろうと思われる股関節の不都合が今「足のだるさ」となって現れているが、何年か放置すると痛みが出ていずれは「人口関節」を挿入することになると説明されました。
それから半年後、私は手術をしました。最初の1ヶ月はベットから下りる事も許されず、3ヶ月は絶対安静。車椅子にも乗りましたし、松葉杖も使いました。そしてリハビリの後、退院の時に使っていたのが写真のロフストランドという杖です。
幸いにも経過は順調でした。手術から10ヵ月後の平成10年秋には、無性に山の空気が吸いたくなり、先生に「恵振山の5合目までどうしても登りたいんです!」と直訴しました。主治医のY先生も山好きで、そんな私の気持ちを大切にして「決して無理をしないこと」を条件に許可が出ました(山を知らないお医者様だったら、怒られていたかも…)。台風一過の晩秋の5合目までの道のりにどんなに胸が高鳴ったか、山深い「濃い木々の匂い」は今でも忘れません。
平成11年の山開きには参加できる程に回復しました。しかしやはり手術から3年目までは、無理をしたり寝不足が続いたりすると時々痛みが出たりして周囲を心配させましたが、その後は本当に順調で、今は「管理人の仕事は大丈夫」と太鼓判を押されています。
病気一つしなかった私が、入院生活ではいろいろな事を教えられました。山へ登る事ができる喜びも改めて感じました。周りの皆さんの励ましがどんなに力になったことか…。様々な事が今の私自身に大きく役立っていると思っています。
手術を勧めてくださり、「山へ登りたい」等とわがままを言う患者をよく面倒見てくださっている主治医のY先生には本当に感謝しています。絶妙のタイミングで出会えた事、そして山の大好きな先生でよかった!!
小屋開けまであと20日。沢山の物資も集まり始めています。…ガンバレ、私の右足!!
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