北アルプス 朝日小屋

朝日小屋 TEL 080-2962-4639(衛星電話)
北又小屋 TEL 0765-84-8809
開設期間外 朝日小屋連絡所
 〒939-0711 富山県下新川郡朝日町笹川 清水ゆかり
 TEL & FAX 0765-83-2318

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忙しかった週末

2003-03-17

「立山室堂山荘連絡所」の看板…横の白いのは、雪   03.3.16

 「立山室堂山荘連絡所」の看板…横の白いのは、雪   03.3.16

 14日(金)の夜行列車に乗り、上野駅には翌15日(土)朝6時着。神奈川県藤沢市へ娘と一緒にアパートを探しに行ったのですが、お陰さまで学校にも近く思っていたより良さそうな物件も見つかりました。そして帰りは午後3時過ぎの上越新幹線に飛び乗りましたが、自由席は満席で越後湯沢駅までは立ったまま。特急と普通電車を乗り継いで、家に辿り着いたのは夜の7時半頃でした。
 そして16日(日)は、立山芦峅寺へ嫁いでいる妹の家へ。立山室堂山荘の先代、故佐伯  昇さんの七回忌がありましたので、実家の母と一緒に朝から出掛けました。
 ごく身内のみで行われた法事でしたが、苦労して立山室堂で山小屋の営業を始めた先々代の三九郎さん、そしてそれを受け継ぎ発展させ三代目の千尋さんへと繋がれた二代目の昇さん、それぞれの遺徳を偲んでの法要そして宴席へと続きました。
 妹が嫁いだのは昭和60年12月で、その年の10月末か11月には、私も実家の父と一緒にまだ新築なる前の古い営業小屋(現在は、国の重要文化財・室堂小屋)を、ご挨拶がてら訪ねた事があります。少し傾きかけたまま黒光りした太い柱や梁がとても印象的でした。その後、亡くなった昇さんには何度もお会いしましたが、私の事をいつも「姉さん姉さん」と可愛がってくださいました。
 芦峅寺では3月に入ってからも何度か降雪があり、一度に70〜80センチも積もった日があったとか。同じ立山町でも、五百石や岩峅寺では周りの田圃の雪も殆ど見られませんでしたが、千垣の集落から上、芦峅寺に入ったとたんに家の周囲や屋根にも、周りの田圃にも積み上げられた雪の塊がまだまだドカンと居座っていました。
 それでも、春は確実にやって来ます。アルペンルートの開通まで1ヶ月、あっという間ですネ…。

立山の雪情報

2003-03-17

「天狗平山荘連絡所」の看板  

 「天狗平山荘連絡所」の看板  

    賢輔さんを自宅までお送りして、その時写して来ました。

 昨年12月に“天狗の親父さん”守さんが急逝された天狗平山荘ですが、千尋さんの家とは親戚関係にあるということで、オーナーの佐伯賢輔さんが法事に参列しておられました。
 その時の話では、今年の積雪は例年(昨年?)より2メートル以上も多めだそうです。3月の降雪が大きく影響しているのでしょうか。
 アルペンルートの除雪も、3月の降雪で思うように進まない事もあったようですが、何しろ「人海戦術」ですので、今は作業をする人達の数も増やして、4月の開通を目指して急ピッチで進められているそうです。
 
 私…「あせぐらしなってきたねぇ」
 賢輔さん…「おう、せわしななって来たっちゃ!!」

 この会話、「忙しくなってきたネ」「忙しくなってきたヨ」の意味です。
 バリバリの冨山弁も、立山の芦峅寺と朝日町では微妙な違いも(笑)。

宇奈月・朝日両遭対協の合同訓練

2003-03-19

訓練の様子    03.3.15       photo by furusaki

 訓練の様子    03.3.15 photo by furusaki

 宇奈月・朝日両遭対協の遭難救助技術の向上を目指した訓練が、15・16日の両日、宇奈月町の宇奈月温泉スキー場と大原台公園一帯で行なわれました。朝日岳方面遭対協からも谷口隊長、廣田副隊長他の隊員が参加し、両遭対協合わせて19名が本番を想定した真剣な訓練に臨みました。
 両遭対協は管轄が接しており、管轄の境界で遭難が発生した場合に備え連携の強化を図ることが目的で、昨年5月にも合同の訓練を実施しています。
 横山 隆・黒部署山岳警備隊分隊長、古崎富裕・入善署山岳警備隊分隊長らの指導を受けながらの遭難者搬送訓練では、ビバーク用簡易テントで遭難者を包みザイルで確保しながら山から下ろす練習などがくり返し行なわれたそうです。
 またこの他にも、山スキーやかんじきでの歩行訓練、雪崩れ用のビーコンを使用した捜索訓練も実施されたとのことです。
 私もぜひ参加したかったのですが、先週末には所用が立て込んでいてどうしても欠席となりましたが、古崎分隊長や阿曾原温泉小屋の佐々木さんの話では、大勢の隊員の参加で大変有意義な訓練だったということでした。
 シーズンを通して、遭難や事故が皆無に越したことはありませんし、小屋の責任者としてもそう願っています。しかしいざという時には、県警山岳警備隊や遭対協の皆さんのお世話にならざるを得ない場合もあり、訓練の重要さは言うまでもありません。
 いつもその献身的な姿には頭が下がります。県警山岳警備隊の皆さん、そして遭対協の皆さん、どうぞ今年もよろしくお願いいたします!!
               (記事は、一部北日本新聞より抜粋)

打ち合わせ

2003-03-19

チューリップテレビ・西山プロデューサー、妹の弥生、私の3人で

 チューリップテレビ・西山プロデューサー、妹の弥生、私の3人で

 昨日は午後から、チューリップテレビの西山プロデューサー、実妹の弥生を交えて打ち合わせ。
 地元のチューリップテレビさんには、一昨年・昨年と朝日岳と朝日小屋を取り上げた1時間番組を3本も作ってもらいましたが、実は西山さんには昨年から温めていた企画があったそうです。
 そこで、3作目のナレーションを担当した妹にも話しに加わってもらい、話を煮詰めようということで、打合せをしました。今年の話や昨年の反省もいろいろ出て、「ああでもない、こうでもない」と話は大いに盛り上がりました(笑)。
 「山」は全く素人だった西山さん。でも朝日岳へは、とても苦しく辛く“死ぬような”思いをして何度も登っていらっしゃったので、今は「自分の中では、日本一の山は富士山じゃなくて、朝日岳!」と言い切れるそうです(笑)。
 今年も、撮影はあるのでしょうか?…またお待ちしていま〜す!!

『ヒスイ海岸』

2003-03-19

朝日岳山頂から、富山湾の朝焼け    02.9.2 

 朝日岳山頂から、富山湾の朝焼け    02.9.2 

 先日の掲示板に“ひまわりさん”が、「ヒスイ海岸」という曲のことを書いていらっしゃいましたネ。
 そういえば、何年か前にそんなステキな歌が流れていたことを思い出し、早速インターネットで調べてみました。
 ありました、ありました!…
 NHKの富山県を取り上げた企画の中で作られたのですが、当時素人ばかり3人のユニットがとても澄んだハーモニーを聴かせてくれていました。探してみると、作詞・秋元 康、作曲・後藤次利だなんて、とても豪華なコンビによって作られたことも判明し、ビックリしました。
 「大蓮華賛歌」も「夕日ヶ原慕情」ももちろん素晴らしい曲(と、自画自賛)なのですが、こんなステキな曲を忘れてしまってはいけませんよネ。
 とてもロマンティックな、そしてちょっぴりせつない曲です。またまた長くなりますが、全曲をご紹介します。
 
『ヒスイ海岸』   
           作詞・秋元 康   作曲・後藤次利   歌・キトキト

ねえ 覚えていますか?   ヒスイ海岸
二人がキスをした   初めての場所
ねえ 覚えていますか?   波のざわめき
あれから   いつまでも 一緒にいたかった

富山空港のロビーで   夢の背中を見送った
ちょっと 無理に笑ったら   もう 涙が落ちた

私の恋に羽根が生えて   青い空へ飛んで行っちゃった
やっと 会えたのに   大切な未来と・・・
だけど きっと いつの日にか   胸の奥に帰って来るでしょう
遠い思い出として   私だけの痛みとして

ねえ 覚えていますか?   潮の香りと
「絶対 離れない」   あの日の約束を・・・

古城公園のベンチで   ふいに ごめんねと言われて
街を 出ていく決心を   そう 教えてくれた

私の恋は鳥のように   籠の外へ逃げて行っちゃった
広い大空と   愛しさは自由よ
誰の恋も縛れないわ   あなただけをどんなに愛しても
それは目には見えない   私だけの宝石なの

あなたは遠い空の下で   何を愛し何に愛されて
どんな恋人と   暮らしてるのでしょう?

そして ずっと 探していた   夢の日々は見つかりましたか?
今も瞳閉じれば   見えるでしょう? ヒスイ海岸

“引越し”を控えて…

2003-03-20

「それぞれの道」  鉢ヶ岳付近の分岐点   02.9.10

 「それぞれの道」  鉢ヶ岳付近の分岐点   02.9.10

 ようやく進学先が決まった、二女・はるかと三女・かなえ。ここ数日は、それぞれの同級生や友人達との別れを惜しんで、「あっちで集まり・こっちで集合」の毎日です。
 先日も、かなえの高校の体育大会応援団のみんなが我が家に20名も大集合し、まぁドッタンバッタンと大騒ぎ(笑)。夜通し起きて朝まで延々と…、さすがに若者ですネ。
 そうこうしながらも、二人の“引越し”の予定日が近付いて来て、私も何やら落ち着かない日を過ごしています。はるかは27日、かなえは30日と決まりましたので、大したことはしてやれなくても、やはりそれなりに準備もあります。
 今日も朝から富山・高岡方面へ買い物(と、下見)に出掛けて来ました。こちらで揃えていくものと行った先で購入予定のもの、何しろ二人分なので、もちろん金銭的にもとても大変なのですが、とにかく頭の中がゴチャゴチャしてしまいます(笑)。
 それぞれに、入学式用の洋服を買いました。黒いキチンとしたスーツ姿の二人を見ると、やはり昨日までの高校生の姿とはちょっと違って、少し大人びたような気がします。
 4月初めまで、もうしばらくドタバタは続きそうです。

深田久弥と朝日岳

2003-03-21

朝日岳山頂に建つ、方位盤    02.7.8

 朝日岳山頂に建つ、方位盤    02.7.8

 深田久弥の年表を開いてみると、「1903年(明治36年)3月11日、石川県大聖寺町(現加賀市)に生まれる」「1971年(昭和46年)3月21日、茅ヶ岳登山中に脳卒中で死去。68歳」とあります。
 今年は、深田久弥生誕百年の年に当たります。
 そして掲示板の中で吉村さんが書いておられたように、今日3月21日には生誕の地である大聖寺で33回忌の法要が営まれているそうです。
 深田久弥といえば、1964年(昭和39年)7月に新潮社から刊行された『日本百名山』があまりにも有名ですが、“山と渓谷”の3月号では生誕百年を記念して『深田久弥の世界…“日本百名山”の著者の知られざる素顔』と題した特集を載せていましたね。ご覧になりましたか?
 深田久弥の百名山の中に、我が愛する朝日岳は入っていません。北アルプスの最北端・朝日岳は「日本三百名山」なのです。
 しかし、実は『日本百名山』が刊行される前年の1963年(昭和38年)7月15日から18日にかけて、久弥は蓮華温泉から朝日岳、そして小川温泉のコースを歩いていて、その事が『山頂の憩い…“日本百名山”その後』と題した本(自選の最後の山の紀行文集といわれる)の中に記されています。
 今回の山渓特集記事の中では、「回想・素顔の久弥」と題して、その山旅に同行された山本健一郎氏が思い出話を書いていらっしゃいます。
 「昭和38年7月。或る山行から」という本文には、蓮華温泉から朝日岳の厳しい急登の感想や、だれもいない朝日岳山頂での寛いだ様子とともに山頂で憩う写真が載せられ、そして大荒れとなった翌日に朝日小屋で停滞し将棋を指した思い出などが綴られています。
 しかし、深田久弥が朝日岳を『日本百名山』の最後にでも選んでくれなかったのはいかなる理由からか、時間的には本の最終校正に間に合わなかったのかとも考えられるのですが(微笑)、『山頂の憩い…“日本百名山”その後』を読む限りは、どうも山旅の全行程の印象がちょっと悪かったのかな、と思えてなりません。
 それによると、「…全くの天上の楽園である。しばらく私たちはその甘美に酔った。」という一文があるのに、「もう頂上が近いと思わせながら先が長かった」とも書いています。 
 そしてどうも久弥のお気に召さなかったのが、北又へ下山途中の夕日ヶ原だったらしいのです。「夕日ヶ原だの…(中略)…近頃の少女趣味の名づけかたを私は好まない。何が夕日ヶ原であるものか、コンチクショウ、と言いたくなる」(笑!)
 また極めつけは、イブリ山(恵振山)。「どんな山頂であったか、何の思い出も残っていないとこを見ると、取立てて言うほどの峰でもなかったらしい」。。。朝日小屋管理人としては、全く無言です(微笑)。
 その後にも、北又から小川温泉への林道のことや小川温泉の様子などが記されているのですが、その文章からみても、どうも深田久弥の朝日岳山行は氏には満足いくものではなかったようですね。
 一方、「保勝会50年のあゆみ」「70年のあゆみ」の両方を調べてみたのですが、当時すでに作家として活躍し、またその数年後には日本山岳会副会長にも就任した、かの有名な深田久弥が朝日小屋に2泊もしたという記録は何処にも残っていません。
 当時の朝日小屋は、一体深田久弥一行にどんなおもてなしをしたのやら、今となっては分かりませんね。
 ちなみに、1963年(昭和38年)に久弥が宿泊した朝日小屋は、1951年(昭和26年)に新築されその後数回にわたる増改築を重ね、その年6月にも食堂や便所の増築工事を完了していたものの、1965年(昭和40年)9月10日の台風23号により全壊。ですから、当時の小屋で久弥が将棋を指したという将棋盤なども、残念ながら今は何も残っていないのです。
 夕日ヶ原も、そして恵振山の山頂も、恵振山5合目のブナの林も…どの場所も、できればもっとゆっくり、そして何度も、深田久弥に歩いてもらいたかったですね。
 きっと久弥は、夕焼けに染まる日本海に沈む夕陽を見ていないでしょう。それから多分歩いた時期からいっても、夕日ヶ原が一面のお花畑になるところを見ていないのでは…。
 また、白馬岳から雪倉岳を越えて来て頂けたなら、朝日岳に対する感想も少し違っていたかもしれません。見てもらいたかったです、残念ですね。

『百名山』でなくても…

2003-03-21

朝日岳山頂から、朝の眺望       02.9.2

 朝日岳山頂から、朝の眺望       02.9.2

 深田久弥の『日本百名山』、皆さんいくつ登っていらっしゃいますか?
 急激な中高年登山者の増加と、ほぼ時を同じくして始まったのではないかと思われる「百名山ブーム」。しかし最近は、その“火付け役”ともなったマスコミの中にも取り上げ方に少々の反省も見られたり、登山界全体の中でもいろいろの議論があったりして、ブームにも翳りが見えてきたとか聞いています。
 私はいくつ登ったのだろう、と思って数えてみました。
 でも、何しろ「朝日岳しか知らない」私です(笑)。管理人になる以前に登っていたのは、お隣の白馬岳と、中学校の集団登山で行った立山、そして小さい頃家族で遊びに行った霧ヶ峰。一昨年には笠ヶ岳に登りましたが、2年続けて折立から登った薬師岳は実は山頂を踏んでいません。写真教室に行った美ヶ原は、ピークは何処だったんだろう。
 すぐ近くの雨飾山も未踏の山です。これからですね、楽しんで登りたいです。
 それからこれは、全く私個人の感想なのですが…朝日岳は、『日本百名山』に選ばれなくて良かったのかもしれません。
 もちろん、山を愛する皆さん一人一人それぞれの中に、大好きな山、想い出の山、忘れられない山があって当然なのです。深田久弥もこんな、ある意味の“騒ぎ”や“ブーム”になるとは思っていなかったでしょうね。
 私の中では、朝日岳はどの山にもまして『日本一名山』なのです。いつまでも、どんな時にも、愛する山に変わりはありません。